まちセン 四畳半物語 その①


延岡市民協働まちづくりセンターに設置した四畳半カフェが、なんか不思議な力を発揮している。実際の畳の数は九畳。四畳半×2といった、実際とネーミングの違いはさておき、四畳半という言葉の響きがその力の原点なのかも知れない。今の若い人にとって四畳半という意味さえもわかっていない人もいるが、昭和を生きてきたオトナにとってその空間は多分特別な響きがある。学生時代、または新婚時代、子供のころと思い描き人生のポイントはそれぞれだが、そこにはいろんな思い出や、想いがあるのだと思う。現実にこの平成の世の中で、四畳半暮らしというのは勘弁してよ!だけど、公共的な場所で一時的にその空間に身を置くというのは、逆にその懐かしさとか、思い出から来るイメージとして積極的に受け入れられているような気がしている。しかし、そうしたオトナたちの四畳半カフェへの思いは、単なる癒しとか安らぎとかだけではない。ここを起点にオトナたちが、再び何かを始めようとしているきっかけづくりの場になっているような気がしている。それが私の言う不思議な力だ。

 いろんなテーマで集まってきた大人たちが、同じ思いで集まった人たちが、畳に座り込み話し込むうちに、自分の中に自ら封じ込めていたものや、日々の暮らしで忘れていたものが、ふっと言葉になって出てくるという場面に何度か出会った。「私、音楽やってました」「電車が好きなんですよ」「楽器吹けますよ」次々とカミングアウトが始まる。そうした人々の青春時代や、子供時代に熱中したものが転げ落ちてくる。それをただの思い出話や告白タイムで終わらないのが、もうひとつの不思議な力。そうした告白に「私も」と続き、「じゃ今度一緒に何かしない」と次へとつながって行く。そうやって話が広がり、次に繋がり始めたオトナたちの表情や笑顔が一気に輝き始める。

そこに小さな幸福感まで感じてしまう。私は、こんな光景を見るたびに、オトナたちが、この街で遊び始めた。それも命を削りながら遊び始めただと思う。日々の暮らしに決して不満があるわけではない。仕事に励み、家族と暮らしはそれなりに幸せを感じていても、昔好きだった自分だけの楽しみを味あうことをどこかに置いてきているものだ。その置いてきたものを取り返したとき、人々は自分の寝る時間も惜しんで、つまり何かを犠牲にしながらしか遊べないのがオトナという生き物だとしたら遊ぶ事は命を削るしかない。

 でもそんな命を削りながら、街の中で同じ想いや、嗜好をもった仲間たちと、とりあえず自分のために遊ぶことが、小さな幸福感を生んでいくということを四重半カフェで出来ていく小さなコミュニティーの動きを見ながら感じている。まずそこから、始める。そんな場所として四畳半カフェは不思議な力を持っている。
fukuda